2024-07-06 ノートの形式、言葉が魔法をもつことについて
メモでも日記でも勉強でも、何でも雑多に残しておきたい気持ちがあるのでscrapboxはやはりとても良いような気がする。ブログとしての体裁を整えようと考えなければ、何でも投げ込んで、リンクによってそれ同士がうっすら自然につながってくる、または今は何になるかわからないものを重要そうだとタグ付けしておいて、あとでそれを拾い出せる…それがとても良いような気がする。
公開しないでも良いようなことも含めWorkflowyに書いて、勉強はNotionが使いやすいから(コメントを入れたり、アンダーラインを引いたり、タイマーまで動かせる!)そのほかの中間のもの〜完成形までもうここだけにするというのもひとつだな。
どうしてどこに書くか、いかに書くかを定期的に迷うんだろう?ひとつのことをやり切る辛抱がなく迷っているというのもあるかもしれないけれど、なんとなく自分の感覚が変わればノートの形や場所が変わる、見せるか見せないかについての意識も変わるしあとで何にアクセスしたいかによっても変わる。
文学の翻訳という作業について考えていた。
原書も翻訳も両方読んだ本なんてごくわずかだから(多分3冊くらい)、翻訳という作業について私はほとんど何も知らない。けれど良い翻訳書を読むとそこにどれだけ細かな選択や調整をされているのかが分かるような気がすることがある。原書と翻訳を比べてもいないのだから分かるわけもないのかもしれない、とも思いつつ、いや、それでもやっぱりその間で行われている作業の繊細さのことだけは分かるような気がする。
自分でも何を言っているのかわからない。
言葉というものが、そもそもそういう思い込みをさせるものであるというだけなのかもしれない。
『素晴らしきソリボ』の中に出てきた、語りを文字にしてしまったらそれはまるで別物になってしまう、ということについてずっと考えている。
言葉というものには実体がない。透明なガラスみたいなもので、人の数だけ面が切られていてその数だけ色合いがある。だいたいこんな意味合い、という共通認識を持つためのものだから大まかには同じ場所に連れて行ってくれるけれど、その単語を人生の中でどういう場面で経験し、どういう文章の中で味わい、どういう状況で使ってきたかは人によって様々だから、その言葉をどんな色で見ているかは細かく変わってくる。言葉に主体はない。言葉に意味を見出すのは受け取る側のはたらきだから。
語るということは、その実体のない言葉に、声の響きとか、高低とか、リズムとか、どういうときに言い淀むのか、どこに視線をやりながら発するのかとか、手振りや息遣い、表情や相手との呼吸…そういうものを乗せることで、どちらかというと体のようなものかもしれない。生まれてきてから現在まで、その人がどんなふうにその言葉を積み上げてきたのか、そして今それを他人との接点として紡ごうとしている。
そういう言葉は魔法と無縁ではない。
普段私達がつかう言葉はショートカットとしての道具でしかないけれど、そんなふうに安易に使われ、価値を忘れられた言葉、ではない言葉というものも私達は忘れていない。
そこにもう少し頻繁に帰るにはどうしたらいいんだろう。
…全然わかりやすく書けない。
大事なことを書こうとすると結び目をとこうとして余計にこんがらかるようなありさまになってしまう。
わたしの言葉は回りくどいし、感覚的になろうとしたりロジカルになろうとしたり、一貫性もない。
続いて読んでいる『ヴォイス』も語り部が登場する物語だった。
ソリボと同じような語り部と友達にもなったし、いまの私にとって大事になりうることなんだろう。
日記